見過ごしてきたもの展

2013年3月15日 - exhibition / WORKS

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コーヒーのある風景

彼らは、コーヒーを煎れるのである。普通の喫茶店と同じように。朝早くから豆を焙煎 し、コーヒーを入れる準備をして、カウンターに立つ。LCAMP のこともあれば、竜宮美術 旅館だったこともある。出前先やアートフェアだったりもする。彼らはおいしいコーヒー を煎れるのである。

それのどこがアートなのか。彼らは普通の喫茶店と「ちょっと違う」と言う。そもそも 彼らは建築を学んでいた。空間を作ること、人がいる場所に興味を持った彼らは、どこか の建築事務所に属して建築家になるのではない選択肢を選んだ。彼らは「コーヒーのある 風景」を作りたいと思った。コーヒーがあって、椅子やカウンターが、屋根があったりな かったりする中で、温かい飲み物を中心に人が、それぞればらばらに集る。人々が集う。 昔で言うなら、井戸端会議の風景だろう。あるいは、公園にきた紙芝居屋さんのようなも のかもしれない。もしくは、昔の下町の誰かの家の居間かもしれない。何か食べ、場所を 共有し、リラックスしてすごす。食べ物を間に挟んだコミュニケーションは、回数を重ね るごとに、薄い和紙を重ねるように、少しずつ重なりを作っていく。

彼らが興味を持つのは、お金儲けではない。金銭的に利益を出すことに興味があるので はなく、コーヒーのある風景を作り出すことに興味があるのだ。中嶋は言う。「儲けようと おもったら、今目の前に出してあるコーヒーがいくらか考えてしまう。そうなったら、早 く回転して欲しいとしか思わなくなる。そこで起きるかも知れない出来事を楽しめなくな る。それではやっている意味がない。」彼らが興味を持つのは、あくまで、コーヒーとその 周りで起こる出来事なのだ。彼らは、手を足を動かしながら、それをみている。

 -みている- この部分がおそらくアートなのだ。

いうなれば、彼らは「生きた建築」なのだ。彼らは場所を作り、空間を作り出す。人々 が「いる」空間を自分たちの存在から作り出すのだ。媒介するのはコーヒーだったり、イ ンスタレーションの仕掛けだったり、朝食だったりする。彼らが仕掛けた「状況」は、自 然にそこに人を集わせ、緩やかな共有を生む。その状況の中で、人々はそれぞれ自分の居 心地を探す。今日の、今の楽しさを探す。全く知らない人との会話。公園について調べら れた記事の載った新聞。朝から食べるステーキの感触。コーヒーの匂い。彼らが提供する 食事やコーヒーは決して法外な値段ではない。むしろ一般の飲食店よりも親しみやすい値 段だ。つまり、彼らは必要以上のお金をもらおうとしていない。いろんなプロジェクトを やって、その全部で必要な分があればそれでいいと彼らは言う。

この考え方は、簡単そうで、実行するのはとても難しい。必要以上のお金を儲けようと はしない。けれども、自分たちの生活も、また提供している空間も決して貧しいものには しない。そこにある時間、余裕、雰囲気、それらが最も彼らが大事にするもので、それはささやかだが、幸せな豊かな時間といえるだろう。わたしは彼らが提供してくれた場所で、 許された場所で、起きたたくさんの幸福な出来事を数え切れないくらい思い描くことがで きる。言うまでもなく、その幸せな一瞬を作り出すためには、彼らは毎日そこで場所を運 営し続けたり、作り続けたりしなければならない、まさに身体ごとその空間を作るために 生活しなければならない毎日を過ごしているはずだ。彼らは、身体ごとアーティストなの だ。

そんな彼らが、自らの生活そのものの真価に興味を示すのは、当たり前のことだっただ ろう。彼らは自分たちの生活をずっと中継し続けるプロジェクトに参加したこともある。 LPACK 「 小 さ な 家 」 http://blanclass.com/japanese/archives/201210-1-6/ blanclass 2012.10.1-6。一日中終止中継される彼らの生活が中継された。ここで、これまでみるもの であり、みられるものだった、彼らは、一方的にみられる者となった。相互のインタラク ションがないこの中継の中で、彼らは何を得たのだろう。

彼らがコーヒーを煎れ続けること。コーヒーのある風景を作り続けることの中には、そ の空間とコーヒーを共有することで、薄い和紙を重ね合わせるような出来事が含まれてい る。一瞬、時間を共有し、空間を共有し、そして離れる。薄い和紙が一枚、それぞれそこ にいる人々の間に敷かれる。また違う日、違う人と違う組み合わせで和紙がしかれる。そ の和紙が折り重なって、ちょうどいい具合になったとき、そこには出来事が起きる。たく さんの幸せな出来事が起きる。厚すぎて身動きが取れなくなってもいけない。けれども、 薄すぎて見えないのも困るのだ。二人がおいしいコーヒーを入れながら見ているのは、そ の薄い和紙がしかれる様なのではないか。その和紙が重なり合う様をそっと見守り続けて いるのではないだろうか。

その和紙が重なる様を関係性と呼ぶこともできる。彼らの作品は、深く内省したり、論 理を構築したりするものとは少し異なる。彼らが最も大切にしているのは、身体であり、 生活だ。そして、食べ物だ。食べ物を通して彼らは、他者の中に深く入り込む。コーヒー を飲むという何気ない行為の中に、小さな和紙をしくことをさりげなくやっている。しか し、彼らは、彼らのために和紙をしいているのではない。彼らが和紙をしくのは、その人 自身のためだったり、そのコミュニティーのためだったり、単に彼らを含めたその場に居 る人たちのためだったりする。

その和紙はいつ成果を発揮するかもわからない。どんな成果なのかもわからない。ただ し、それは普通コピー用紙ではなく、薄い上質の和紙なのだ。そして彼らの関心事は、お いしいコーヒーを出すこと以上に、その和紙がしかれた上で何が起きるのか?ということ なのだと思う。彼らは、何事かが起きることを少しだけ期待して、そこに居る。それ故に、 普通の喫茶店とは「少し違う」のだろう。そうやって、他者の体内から社会に手を伸ばす 彼らの行為は、例えば、リレーショナル・アートと言い換えることもできる。しかし、何 より彼らが最も大事にしていることは、分類ではなく、そこで起きる出来事であり、そこ に作られる雰囲気と空間である。その意味で、彼らがアートの文脈に乗るかどうかは、実は彼らの最大の関心事ではないのだ。そういうストイックさと率直さを持って、彼らは作 品を作る。そんなアーティストが日本に居ることを、生活を続けながら、人々の間に和紙 をしき続けることを、わたしは大変楽しく思っている。
彼らの次の展覧会の舞台はせんだいメディアテークである。ここで、彼らは改めて他の 形で人々の間に、人と作品の間に和紙をしこうとしている。はたしてそれは成功するだろ うか。7 日間かぎりの展覧会の中で、彼らが行う試みを改めて興味深くみていきたい。(本展キュレーター)

 

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見過ごしてきたもの展
2013年2月25日〜3月14日
せんだいメディアテーク

 

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